見出し画像

ネットの新概念「シーライオニング」の元ネタ漫画は本当にリベラルな文脈で描かれているのか?という疑念

noteを始めた去年、「名探偵青式くん」という漫画を描いて投稿した。note民に説明するとツイッターには青識亜論くんという論客がいて(最近noteも始めたので知っている人も多いだろう)、まあリベラルやフェミニストに対して「あれはどうなんですか?」「これはどういう意味ですか?」と質問をふっかけて嫌われているわけである。こんな感じで。

画像1

われながらひどいこと描いているな。300万いいねくらいされてもいいと思う。彼とはしばしば意見がぶつかり論争している。ツイッターでは3年前くらいにエマ・ワトソンの国連演説の是非について論争した。何だかこう書くとすげえ頭よさそうに見えるなおい。内容はくだらないのでまあ興味のある人は読んでみてほしい。こんな感じである。↓


ところで、ツイッターで今「シーライオニング」という言葉がバズっている。まあ簡単に言うと「本人の言いたいことをくみとらずにあれやこれやと重箱の隅をつついて質問すること」と言ったような意味合いである。この言葉でリベラルの人たちはがぜん力をえて、そうだ、社会運動に対するそうした些細ないちゃもんにはつきあう必要はないのだ、とエンパワメントされている。とりわけ今までさんざんそういう感じで論争をやってきた青識くんが槍玉に上がっている。

ざまあ。

失礼しました。いきなり正直な感想を記述してしまいました。まあそれに対しては色々な意見があるのだとは思う。

しかし、である。

僕が非常に気になっているのはこの元ネタの漫画である。まあ読んで欲しい。

noteはサムネ画像ちっちゃいんですかね。リンク先でフルサイズ読めますが英語なんで、日本語に訳したツイートも紹介します。

うむ。

大丈夫か?これ。

僕は英語がそんなに強くないし英語圏のネット事情を知らない。だから欧米で「シーライオニング」という言葉がどういう人たちにどう使われているのかわからない。どうも話ではゲーマーズゲート、ゲーム描写をめぐるフェミVSオタクみたいな論争の中で主にフェミニスト側で使われているらしく、欧米ではリベラルやフェミニストがどんどん使っているのかもしれない。繰り返して言うが青識くんに対しては叩かれて率直にざまあという気持ちである。しかしだ。

この漫画、リベラルな文脈で描かれてるか?

最初のコマを読んで見てほしい。「I don't mind most sea animals,but SEA LIONS? I could do without SEALIONS」上のツイートだと「基本的に海獣は好きなんだけどアシカは無理なんだよね」と訳されているが、「I don't mind」は「たいていの海獣は気にしないけどアシカ?アシカは願い下げよ」と言ったところだと思う。(追記:翻訳したのはツイートしたわなびさんではないとのことである)ずいぶんな言い草ではある。でも重要なのはその次、相手の男性の言葉である。

「DON'T SAY THAT OUT LOUD!」そんなこと大声で言うなよ!

で、このあと、この二人の前にはアシカが現れ、「アシカがあなたに何をしたのか教えてもらえますか」と質問しはじめる。礼儀正しく、社会的ルールを守って。「ほらアシカだ」と男は嘆く。「君はやっちゃったよ、アシカだ、だから言ったじゃないか」

うむ?

これなんか、やっぱり違うんじゃねーのこの漫画。

どこをどう読んでも「社会正義として差別反対を主張する人を、質問責めで妨害する行為を批判した漫画」には読めない。

というかこれは僕の個人的印象だが、むしろその逆である。

「私はあいつらが嫌い、いなくてもいい」「おいおい、そんなこと大声で言うなよ…」「ほら言ったじゃないか、あいつらが来た」「やっちゃったよ…」

これアレじゃないんでしょうか、noteのみなさんにどこまで伝わるのかあれなんですが、ツイッターでいうところのスルメロック先生的なあれというか、むしろそうした社会運動を嫌悪する人たちに寄った漫画に見えるんですが。

端的な話、リベラルな人たちは自分の主張を「しっ、そんなこと大きな声で言うなよ」とは言わない。堂々と主張し、正面から反論するだろう。というかそもそも、この女性の主張は「アシカがいらない」という特に理由のない、他者の生存に対する理不尽なまでの嫌悪感であり、それに対して男性は「そんなこと大声で言うなよ」と怯えている。善悪や社会正義の話ではまったくないのである。むしろ「個人的な好き嫌いに理屈でズカズカ踏み込まれてうざい」という漫画に見える。そして踏み込んでいるのは、存在を否定された当事者なのである。ちなみにこの漫画についているハッシュタグは「#annoyances」うるさい、イライラする、うざい、と言った意味合いである。

リベラルか?これ。

どう考えても怪しいと思う。

リベラルな人たちはどう考えても、自分たちの姿を貴族の男女に描き、相手を動物に描くというマネはしない。しかもこの貴族の女性が主張しているのは「たいていの海獣はまあいいけど、アシカはイヤ」という相手の存在をさした否定なのである。

うむ。

まずいのでは。

そんなことはどうでもいいんだよ!せっかく青識みたいなやつをガツンとやっつける言葉がみつかったのに!という思いもあるかもしれない。繰り返すが青識くんについてはまことにざまあである。しかしそれならそれで「青メガニング」とか「青識キング」と言った言葉を使ったり、まああと適時新しい言葉を考えたり単純にバーカと罵倒すればいいのであって、このアメリカンスルメロック漫画はいくらなんでもスジが悪すぎると思う。

僕が非常に気になっているのは、この元ネタになった漫画にリベラルな人たちはあまり違和感を覚えなかったのだろうか、ということである。

リベラリズムやフェミニズムという思想はこの漫画の中の貴婦人とはちがうもののはずである。「人間じゃない気味の悪いあいつら」に対する素朴な嫌悪感を口にしただけなのに、自分のことを言われたからってズカズカと生活に踏み込んできて、こっちはあいつらと話す気なんか毛頭ないのにつきまとわれてウザい、というのがあの漫画である。たいていの場合、アシカは人を殺さない。むしろ人がアシカを殺す側であって、あの漫画はアシカを殺し、皮を剥ぎ脂肪をを採取して収奪してきた人間の側が、「私たちがあなたに何をしたのでしょうか」と問い詰められて「単にあんたが嫌いだと言っただけなのに嫌いな理由なんか聞かれてああうっとうしい」という漫画である。リッチで、エスタブリッシュで、上品で洗練された都会生活者が、アシカという人間じゃないケダモノ連中への嫌悪感を語った漫画だ。この漫画を元にシーライオニングという言葉を使っているから今のリベラリズムやフェミニズムがそうだ、と言っているわけではない。リベラリズムやフェミニズムがそうであってはならない、今後もそうなってはならないという話をしているのである。


ここで終わるとまた「CDBは社会運動の盛り上がりに水をさした」見たいに言われてしまうので、適当に青識くんを罵倒して終わろうと思う。青識くん叩かれてざまあ。バーカバーカ。ちゃんと相手の話を聞いて誠実に議論するように。おわり。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?