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房総航空戦―8月15日の戦い― Part1

 Wikipediaや艦これwikiなど、ネット上のシーファイア(スピットファイア)に関する記事やホームページ、また『世界の傑作機』などの書籍の中では、1945年8月15日…つまり玉音放送が行われた、今日で言うところの終戦記念日に、房総半島上空でシーファイアと零戦の航空戦が行われた、という記述がよく見られる。

 実際、私もこの事実に関しては随分前から知っていたが、母校の記録を改めて見たところ、実はまさに私が生活していた地元の上空で、この歴史的な戦いが行なわれていたことが分かった。

 ネット上の日米英のホームページや文献などを調査したところ、イギリス海軍航空隊、日本海軍航空隊、そして地上で生活していた地元住民の三者が、各種媒体でこの航空戦に関する記録を残していた。

 そこで本記事では、この三者の証言そして戦後の調査などの記録をまとめ、この第二次世界大戦最後の戦闘機同士の航空戦について見ていこうと思う。

 なお、今回の記事の情報はかなりの部分がネット上で発見した情報に頼らざるをえなかった。英文の記事を翻訳サイトなどを使って頑張って解読しながら情報を集めたが、誤訳やそもそもの日英の一次史料の食い違いによる事実誤認などが存在するものと思われる。何かご指摘やご意見がある場合は是非とも私のもとへ届けていただきたい。

第38任務部隊

画像1

 昭和20年(1945)、日本近海にはアメリカ海軍空母部隊とイギリス海軍空母部隊によって編成された空母機動部隊である第38任務部隊(Task Force 38)が展開し、特に7月以降になると来るべき日本本土上陸作戦に向けて艦載機による日本本土への空襲を繰り返した。
 8月15日午前4時15分、木更津にあった飛行場を攻撃するために第38任務部隊航空隊が空母を発艦。しかし目標付近の天候が悪かったこともあってイギリス海軍所属の空母「インディファティカブル」航空隊は攻撃目標を変更、「オダキ湾」(Odaki bay)にある化学工場へと攻撃隊は向かった 。

TG 38.5(Task Group 38.5)第38.5任務群…イギリス海軍太平洋艦隊
空母「インディファティカブル」
戦艦「キングジョージ5世」
軽巡洋艦「ニューファンドランド」「ガンビア」
駆逐艦8隻

インディファティカブル搭載航空隊(1945年7月以降)
第820飛行隊(TBM-1アベンジャー×21)
第887飛行隊(スーパーマリンシーファイアFⅢ×15+LⅢ×9)
第894飛行隊(シーファイアLⅢ×16)
第1772飛行隊(フェアリーファイアフライⅠ×12)
計73機

このうち8月15日に出撃し、房総半島にて交戦した戦爆連合(ストライクパッケージ)は以下の編成であった。
シーファイアMk.Ⅲ×8
ファイアフライ×4
TBM-1アベンジャーMk.Ⅱ×6
その他米軍航空隊と併せて103機 

 インディファティカブルに搭載されていた単座戦闘機は、スーパーマリンシーファイアだ。これはイギリス空軍の主力戦闘機であったスピットファイアMk.Ⅴcを空母で運用できるように改良したものだ。カタパルト用フックと着艦フックを付け、主翼を折り畳んでコンパクトに格納庫に収納できるようになっている。
性能は以下の通り。(シーファイアL. Mk.III)
エンジン:ロールスロイス・マーリン55M(1585馬力)
最高速度:578km/h(高度1514m)
航続距離:748km(増槽装備時1239km)
武装:AN/M2 Mk.II 7.7mm機関銃×4挺+イスパノ Mk.II 20mm機関砲×2挺

 ベースとなったスピットファイアが優秀なこともあって戦闘機としての性能は優れていたが、陸上運用が前提の戦闘機を改造してなんとか空母で運用できるようにしたため、着艦時などに度々事故を起こし、艦載機としては少々難のある機体であった。

新規ドキュメント 2018-04-19 - 第68ページ

第二五二海軍航空隊

  昭和20年の春から夏にかけて、千葉県の茂原航空基地には第二五二海軍航空隊の戦闘第三〇四飛行隊が展開していた。三〇四飛行隊は昭和19年(1944)4月15日付けで編成された部隊で、定数は戦闘機48機であった。
 昭和19年5月に千島列島北端の占守島へ進出し、米爆撃機の邀撃にあたっていたが、10月以降は南方へと移動し、沖縄や台湾で戦っていた。米軍がレイテ島に上陸するとルソン島へと進出し、以降フィリピンで米陸海軍航空隊と激しい戦いを続け、消耗していった。


 その頃、日本海軍は戦力の再建に取り掛かっており、昭和20年(1945)1月には千葉県の館山基地で三〇四飛行隊は新たなパイロット達によって再編成された。このパイロット達の中には、かつてオーストラリアのポートダーウィン上空でスピットファイアを相手に戦ったことのある吉田勝義飛曹長などのベテランパイロットもいた。
 陣容が整った2月には茂原への基地移動を実施したが、この間にも関東地方を襲撃する米海軍機動部隊の戦闘機隊と航空戦を繰り返していた。3月に入り、米軍が沖縄攻略の兆しを見せると、三〇四飛行隊は九州へ進出し、南西諸島で米軍と激しい航空戦を繰り広げた。
 4月26日、消耗の激しかった三〇四飛行隊は福島県の郡山基地へと転進し、再編成に入った。7月に入ると再び茂原へ移動し、散発的に飛来する米軍の哨戒機などの邀撃にあたっていた。

 8月14日、米英海軍機動部隊が房総沖に襲来し、三〇四飛行隊では飛行隊長の日高盛康少佐は「明日は敵の来襲が予想されるので全機出撃」と告げた。

第二五二海軍航空隊保有航空隊(終戦時)
零式艦上戦闘機五二型×73
零式艦上戦闘機二一型×3
彗星艦上爆撃機四三型×1
零式練習戦闘機×2
白菊機上作業練習機×2
九三式中間練習機×4
計85機
このうち8月15日に出撃し、房総半島にて交戦した航空隊は以下の編成であった。
零式艦上戦闘機五二型丙×20~40

 二五二海軍航空隊の主力戦闘機は零式艦上戦闘機五二型丙であった。零戦のシリーズの中でも後期の改良型で、重装甲の連合軍戦闘機に対抗するために火力と装甲が強化された型になっている。
性能は以下の通り。
エンジン:栄二一型 (1130馬力)
最高速度:約540km/h
航続距離:1920km(増槽装備時2560km+全力30分)
武装:三式13mm機銃×3挺+九九式20mm二号機銃四型×2挺

 武装と装甲は強化したが、エンジンは以前から据え置きであったため、飛行性能はやや低下してしまっており、部隊によっては13mm機銃をはずして運用しているところもあった。しかし機体が頑丈になったことによって降下制限速度も改良されており、火力強化と相まって一撃離脱戦術の実施には好適な機体となっていた。

画像6

 目標付近に達した時、インディファティカブル航空隊の中で「日本側の戦闘機を警戒するように」と無線でやり取りが行われたが、この時第894飛行隊、フレッド・ホックレー少尉のシーファイアの無線機が故障していることが確認された。
 午前5時30分、濃霧のなか敵機接近の報を受け、茂原基地より戦闘機隊が次々と離陸した。前日より準備を進めた上での、満を持しての出撃であった。午前5時45分、オダキ湾へ行く途中で日英の部隊が接触した。かくして房総半島上空で、第二次世界大戦のフィナーレとなる一大航空隊の幕が上がった。(Part2へ続く)

コラム:オダキ湾はどこか

 ここまで読んで気になる方は気になる単語があっただろう。インディファティカブルの戦爆連合軍の攻撃目標となった「オダキ湾」(Odaki bay)の存在だ。

 まず関東地方にはオダキ湾という地名は存在しないため、これは連合軍側がどこかの地名を誤って認識、ないし記録していたことは確実だ。問題は本来であればどこを指していたのかというところだ。条件としては、東京から南へ30マイル(約50km)ほどの距離の場所にあるということ。そして爆撃の目標となる化学工場が存在すること…があげられる。

 吉野泰貴氏は参考文献中でこれは三浦半島の小田和湾の誤記ではないか、との見解を示している。たしかに東京から見て南へ50kmほどの距離の場所に立地しており、当時化学工場があったかは定かではないが、現在は自衛隊の駐屯地が存在しており、当時も何らかの戦略的に重要な施設が存在していたと見て良いだろう。

画像4

 しかし、ここで不自然になってくるのは航空戦が起きた場所だ。下にあげる画像の通り、次回の記事で述べる墜落機の場所や地上からの目撃情報から、日英航空隊の主戦場は房総半島の中央部(上総地域)の東部と見て間違いない(画像中で黒い線で丸く囲った範囲)。そして英航空隊は、最初の攻撃目標であった木更津航空基地から二次目標である「オダキ湾」へと向かう途中で零戦と交戦したと記録している。

空戦空域図

 もし、「オダキ湾」が「小田和湾」であったならば、英航空隊は東京湾を横切って移動するはずで、実際に戦闘があった地域を目標の攻撃“前”に通過するというのは不自然ではないだろうか。もしこの航路で小田和湾を目指して飛行し、目標到達の前に邀撃を受けると仮定するならば、交戦地域は東京湾西方から神奈川県の上空になるだろう。邀撃する部隊も厚木航空基地の三〇二海軍航空隊になるはずだ。8月15日、実際にはこの部隊は米英航空隊の第二次攻撃隊と交戦している。
 英航空隊の航路からして、「オダキ湾」は房総半島の東部の何処かに存在すると見ることはできないだろうか。そのような観点から考察すると、最も可能性が高い「オダキ湾」の候補地は、千葉県の大多喜町になるのではないかと思う。

 まず、「大多喜」は前近代の時代には「小田喜」「小滝」つまり「オタキ」ないし「オダキ」と呼ばれていた。そして当時大多喜町には「宮田製作所大多喜工場」が存在し、自転車やオートバイ、戦闘機の車輪などの軍需物資の生産を行っていた。実際、詳しい時期は不明だが、この宮田製作所が連合軍の艦載機の襲撃を受けており、この時も連合軍の攻撃目標に設定されていた可能性が高い。

新規ドキュメント 2018-04-19 - 第70ページ

 そして、もし大多喜が二次攻撃目標であったのならば、木更津から移動している途中で航空戦になった状況とも矛盾しないのだ。以上のことを鑑みると、「オダキ湾」が「大多喜町」であったと見ることができるのではないだろうか。

 以上の考察はあくまでも作者の個人的な考えに過ぎず、勿論いまいち決め手に欠けるところもある。当日のより詳細な情報が判明すればもっと精度の高い考察ができるはずなので、今後の情報収集の進展によってはこの考察内容も改訂される余地があるだろう。

参考文献・HP

・吉野泰貴「“片田舎零戦隊vsシーファイア”8月15日の空戦」『丸 2019年2     月号』(潮書房光人新社 2019年)
・ミリタリー・クラシックス編集部編『零戦と一式戦「隼」完全ガイド』       (イカロス出版 2019年)
・和泉貞夫編『わたしたちの郷土 ―大多喜町の歴史―』(大多喜町教育委        員会 2014年)
・夷隅町史編さん委員会編『夷隅町史 通史編』(夷隅町 2004年)
・湯沢豊編『世界の傑作機No.102 スピットファイア』(文林堂 2003年)
・千葉県立大多喜高等学校編『大多喜高校百年史』(千葉県立大多喜高等学       校 2001年)

神立尚紀 知られざる『終戦後』の空戦~8月15日に戦争は終わっていなかった(2018年)
産経新聞 「終焉の地」を探して(2015年)
Mark Barber 「The Last Dogfight」(2014年)
Task Force 38
Soham Grammarians : Fred Hockley 1934-40
HMS_Indefatigable_(R10)
Fred_Hockley
Victor_Lowden
In the last hours of war, blood and heroism and irony and loss
Maritimequest HMS Indefatigable photo galley

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